「もすきーと」と「キャンバス」 2026.07.19 07:40

live at 阿佐ヶ谷 ロンサム

今日のLive Bar ロンサムでした、あとから知ることになったのだけど時間的都合で今日は「もすきーと」は登板しなかった。
それが別にどうか、というわけではないのだけど、帰宅後、朙さんの物販でも購入できる『ノートの中から這い出して』を改めて聴き返している。

朙さんが以前、曲作りについて、魂を削り出すような言葉で表現していた記憶がある。
正確な言葉は少し違っていたかもしれない。

「もすきーと」の歌詞を見ると、本当にこれでもかというほど赤裸々に、本音を吐露しているように僕には聞こえる。だから胸を打つし、僕の周囲にも、この曲を好きだという人がとても多い。

『ノートの中から這い出して』で、「もすきーと」は2曲目に置かれている。

もちろん、作品の曲順に一つの正解があるわけではない。けれど、これほど気持ちの込められた歌が、随分と早い場所から現れることは、とても興味深く感じる。

早くこの歌を届けたかったのかもしれないし、そんな深い理由はなかったのかもしれない。ただ、今のライブで聴く「もすきーと」を知ったあとに初期の音源へ戻ると、この曲がここから長い時間を歩いてきんだろうな、ということを感じる。

ライブを重ね、演奏を重ね、アレンジが変わり、曲は磨かれていった。

歌の「完成」をどこに定めるかによって話は変わるけれど、朙さんのライブの魅力の一つは、曲が生きていて、その時々で別の表情を見せることだと思う。

主旋律や歌詞は変えなくても、ギターの弾き方や声の置き方によって、その曲がまとっている空気をがらりと変えることがある。

朙さんがギターの演奏を大切にしていることと、その演奏技術があってこそできることなのだと思う。

これはとても贅沢だ。

曲や歌詞そのものを別のものにして空気を変えるのとは違う。そこにある音楽を、その日の演奏によって違う景色へ連れていく。

音楽そのものを楽しみたい人間にとって、これほど楽しく、幸せなことはないと、ライブを見るたびに思う。

「もすきーと」は、東京に行ってしまった友達を想って書いた歌だったと初期の記憶。

けれど、朙さん自身の音楽活動が進んでいくにつれて、この歌から僕が受け取る意味も少しずつ変わってきたように思える。

「歌をつくろう。僕よ ぼくを唄え」

僕が特に好きな一節だ。

この言葉を今のステージで聴くと、誰かとの約束を歌っているだけではなく、朙さん自身が歌い続けるための道しるべのようにも聞こえる。

過去の自分と、今ここで歌っている自分と、これから先の自分。
その全部に、自分の現在地を刻み込む住所のような言葉に思えて、熱いものが込み上げてくる。

僕の中では、いつしか「もすきーと」は、「ゆがみ」と並んで、朙さん自身の歩みを感じる歌になっている。

「ゆがみ」は、自分を守ってきたものを、ただの欠点として切り捨てないで個性や強さとなる歌として僕は受け取っている。
少し話が広がってしまうけど「余白」もまた、ライブの中で変わり続けているように感じる。

新しい会場に立った日、その場所からホームを想いを寄せて自身の居場所を確かめるように歌われることがある。
音楽活動を続けていくことを、改めて自分自身へ言い聞かせるように聞こえる日もある。

もちろん、これは僕がライブを見ながら勝手に感じていることにすぎないけど。
そう聞こえた夜には、どうしても涙を止められない。

日々の流れ、生活、そして技術によって曲は変わる。
演奏が変わるだけでなく、歌う人の現在が変わり、聴いている人の現在も変わる。
一度言葉として置かれた意味も、その後に積み重なった時間によって別の形を帯びていく。

そう考えると、これはまさに「7.86」で歌われている、言葉の意味を一度溶かし、別の形にして受け取り直すことを、僕たちはリアルに追体験しているとも言える。

そして今日、久しぶりに歌われた「キャンバス」。
しかも一曲目だった。

長編でメロディアスで、盛りだくさんな曲だ。
同じ頃に作られた「タイトル未定」とは、またまったく違う角度から、創作することの苦しさが歌われている。

完成させることが怖い。
一つの答えを選んだら、そこにあった別の答えを失ってしまうのではないか。

本気で向き合って、それでも十分なものを出せなかったら、それまでのすべてまで疑ってしまいそうになる。
写真でもデザインでも音楽でも映像でも、何かを作る人なら、胸の近いところに刺さる歌だと思う。

「キャンバス」がこれからライブの中でどんな表情を見せていくのかは分からないけど
ただ、今日一曲目に置かれた「キャンバス」を聴きながら、この歌もまた、歌われるたびに少しずつ新しい場所へ進んでいくのだろうと感じていた。

それがあったから、帰宅して「もすきーと」を聴き返したくなったのだと思う。

魂を削り出して歌にすることは、きっと簡単なことではない。

だから、楽曲を安直に求めることはしたくないし
もっと心の声を聞かせてほしい、と外側から迫ることもしたくない。

ただ、ノートの中にあった曲が外へ這い出し、何度も歌われ、演奏されることで、最初とはまた違う場所へたどり着いていく。
その時間を、僕はこれからも見ていたい。

朙さんがどんな歌を選び、どんな形で手渡してくれるとしても、その時に受け取ったものを、真正面から感じたい。
そして、歌を受け取った僕たちも、それぞれの場所で何かを感じ、写真や文章や日々の何かへ返していく。

そんな静かな往復が、これからも続いていけばいい。

今日歌われなかった「もすきーと」と、今日久しぶりに一曲目を飾った「キャンバス」。

その二曲の間を行き来しながら、そんなことを考えていた夜でした。

出典: X投稿